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結局「あした」は何なのか

まずは、「あした」の意味からです。

「あした」が今日の翌日としての意味だけではなく、「近い将来」を指すのは、皆さんにも共通するご意見だと思います。また、西のような「今日を一所懸命暮らす人にとっての明日」とも異なり、「目標」が存在することも、必要な要素だと思います。

人によって表現は異なるでしょうが、私は「目標へ到達するために通過する近い将来」を「あした」の意味と定義します。


それでは、「あした」の台詞を多く発した丹下段平と矢吹丈についての「あした」を考えます。

段平にとっての目標は、書くまでもなく世界チャンピオンを生み出すことです。このことは第1巻から書かれていますし、丈の対戦相手で慎重になったり、フェザー級へ転向させようとしたのも、偏(ひとえ)にチャンピオンを育てるためです。

つまり、丹下段平が少年院の丈に送った手紙「あしたのために」の意味は「世界チャンピオンになるために通過する近い将来のために」なので、「プロボクサーになるために」と捉えることができます。


次は、意見の分かれそうな矢吹丈にとっての「あした」です。

矢吹丈がボクシングを始めたきっかけは丹下段平との出会いですが、真剣に打ち込んだのは、力石徹に勝つためです。しかし、力石徹に勝つことも、ボクシングの世界チャンピオンになることも、丈にとっての「あした」ではないと考えます。その判断材料となる台詞もいくつかありますが、特徴的なのが次の3つです。

・少年院からの脱走を力石にはばまれて、こう言います。「自由をうばわれるのは がまんがならねえが… 負けるってことは もっと もっと がまんがならねえ!」(2巻75ページ)
・東洋チャンピオンになったばかりの丈は段平にこう言いました。「いまより上の者が世の中にあるってことを知ってながら、ぬるま湯につかっているなんざガマンができねえのさ!」(13巻128ページ)
・ホセと戦う前にもう一戦防衛戦をすることになると、こう言いました。「なぐりあいてえ野郎がメキシコにいる だから おれは メキシコにいく!」(14巻196ページ)

要するに、自分より強い奴がいる場所がボクシングの世界だったというだけで、それに勝つためにボクシングをしているということです。上で紹介した文の「がまんがならねえ」でも分かる通り、このことは目標でも何でもなく、「がまんがならねえ」という感情的なことです。ですから、世界チャンピオンや特定の対戦相手は、丈の「あした」ではありえません。

では、丈にとっての「あした」とは何なんでしょうか。そのヒントは、ボクシングの合間合間にあります。

冒頭の大計画を覚えていらっしゃいますか。ドヤ街に遊園地や工場などを建てるという大計画です。(1巻115ページ)
養護施設を抜け出し、方々を転々としていた丈が、ようやく見つけた居場所がチビ連や段平達がいるドヤ街です。その居場所を皆が幸せに暮らせる町にしたいというのが丈の願いでした。

また、ハワイで東洋タイトルを防衛し、帰国する時の丈も象徴的です。(14巻89ページから114ページ)
機内ではホセにやられる夢にうなされていたのに、ドヤ街の住人の出迎えに会った途端、さっぱりと吹っ飛びます。そこには、「ボクサーであることもわすれた」と書かれています。

他にも、少年院から退院した丈が、ドヤ街の住人からの歓迎に感動する場面などありますが、丈がドヤ街の住人と接するときの言動は、どれも実に穏やかです。

私は「身近な人の幸せ」が丈にとっての「あした」だと考えます。ボクシングでドヤ街を活気付かせることができた丈ですが、ボクシングを辞めてからも、そして白木葉子と結婚することになったとしても、きっとドヤ街と共に生きるように思います。それが丈にとっての「あした」なのですから。

皆さんは、いかがお考えですか。

コメント

あしたの希望の星

泪橋を逆に渡る者はいない。それを丈と段平は逆に渡ろう!といつしか気持ちが、以心伝心してきます。ドヤ街の住民の希望の星になっていった。

でも・・・風来坊の丈は例え・・・と云うかボクシングを止めたりしないと思います。丈がボクシングに出会っていなかったら、精々、元々が孤児で風来坊、チンピラ人生を過ごしていた事でしょう。。。その人生も所詮、自由は無いですから、ヤクザ組織で抹殺される人生だったと思います。
白木葉子が丈を好きでも、丈は葉子とは住む世界が違うと自覚して「お嬢さん」と呼んでいたし、女が自分達の戦いのリングに顔を挟むのは、金持ちのお譲様の道楽にしか思っていなかったと思います。結婚とかは有り得ないです。
最後に葉子にグローブを渡すシーンは丈の優しさとは理解し難いです。
丈がボクシングを始めるきっかけに成った力石と丈の青春。力石亡き後も丈は力石の事はいつも傍らにあった。その二人の生きた証しを、葉子に受け取って欲しかったのではないでしょうか?
それは、葉子が二人の青春を一番、理解していた女性だからだと思います。

丈にとっての「あした」は元々、孤児、風来坊の不良少年が、毎日ボクシングに夢中に我武者羅に打つかって行く姿を「あしたはどっちだ」と言っているように思います。

明日の意味

現在の明日って、あの70年代と違って夢がありませんよね。経済が明日に占める割合が多くなってしまって。現代の子供にとって明日って何なんでしょうかね?お金持ちになることなんでしょうか?
この漫画の価値観って、人が持つべき普遍的な何かを示唆している気がしてなりません。主人公は虚しい死に向って生きている自分が本当に好きなことを見つけ、明日を信じて努力して認められ成長していますよね。お金や名声など人が納得する何かじゃなくて、自分が納得できる歩みなんですね。ボクシングだけじゃなくて、人格的にも成長していく。そんな主人公に周囲が魅力を感じかかわって行く。昭和の高度成長期の背景にしか実現しなかったんでしょうね。
だから今見ても色あせない、感動があると思います。
だから僕にとって、ジョーのあしたは、成長することじゃないのかな?その成長が終わり主人公は漫画を去っていった、そんな気がします。

どうでしょう?俺は、丈が真っ白に燃え尽きるのが明日の始まりと思いました。明けることのない青春を走り真っ白に燃え尽きてこそのあしたであったのではと思います。あしたはどっちだ?それは燃え尽きて真っ白な灰になる場所はどっちだ?とのことに感じます。力石もカーロスも燃え尽きて真っ白な灰になった。そんなものを丈は紀子にかったっています。これはそこが自分の行き着きたいところでさがしているものであるかのようです。これこそ丈のあしたであったのではないでしょうか?

はじめまして。あしたは、どっちだ。。。私も、ぱおさんと似た考えです。最後、ジョーが真っ白に燃え尽きるまでは、明日が分からない迷いと私は思います。

私は主にアニメ版しか見ていないのですが、そのアニメ版には、丈がプロテストを受験できずに八方塞になっていた頃、自分の「あした」について思い悩むシーンがあります。
私はこのシーンを見る度に、「君はいつか、自分が大切に思うボクシングのリングの上で、自分を大切に思ってくれる大勢の人たちに見守られながら、最強の相手と死力を尽くした名勝負を繰り広げ、そして自分の希望通りに燃え尽きることになる。だから、今は辛くても頑張れ」と心の内で語り掛けます。
そういうわけで、私が考える丈にとっての「あした」とは、究極的にはホセ・メンドーサ戦の試合終了の瞬間そのものであり、広義的にはそこに至るまでの道程だと思います。

感情と目標は異なるのでは

真っ白に燃え尽きたというのは、「がまんならねえ」という感情が満たされたというのであって、目標となるべき「あした」とは違うように思います。でも、こういう意見が複数あるということは、そういう解釈もあるんでしょうね。

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